masaki’s diary

考えは時と共に成長していきます。ここで思いとは成長ではなく気づいて行くことだと感じます。幼少期には氷山の一角しか見えていない思いが、歳を重ねるごとに全体像を知って行くのではないでしょうか。

未知の哲学論

人間を神様が創ったとしたなら、神様を創った更に未知の存在がいるのではないだろうか。そう考えるとこの答えは実に際限がない。また神様とは私達にとってはイメージでしかない。果たして神様が実存するならば私達のイメージ通りの存在であるかは不明である。ビッグバンにより偶然宇宙が出来、そこに偶然地球が誕生したのか。そして人類は偶然に生まれたのだろうか。それは正に神様の誕生にも同じことが言える。例え神様でも絶対的な存在ではないと思う。絶対と認めたことによりそれは絶対ではなくなる。つまりそれ以上の先にある何かにたどり着くことができないからだ。神様も人類同様、常に向上心を高ぶらせながら成長をし続けていると思う。全知全能である天なる父へ、あなたの父母は誰なのですか。あなたはその父母の子なのでしょうか。 また原始人が現代文明を想像できたであろうか。しかし原始人がいたから現代文明がある。原始人に知恵がないならば現代も未開の原始時代である。神話によるとアダムとイブが地上で最初の人間と言われている。つまり端的にいうと原始人である。神話が本当ならばアダムとイブも地上から星々を二人で見つめながらロマンを感じていたと思う。そして子供が生まれその子供が親となり子供を産み人類はその数を増やしていったのだろう。物質で満たされた現代よりも原始時代の方がロマンに満ち溢れていたと思う。何もない時代だからこそ、夜の美しさを素直に感動し、自然の恵みのありがたさや愛に対して実直に向き合えたはずである。他に何も無いからだ。原始人に知恵がないと文明の発展もない。しかし人類は文明の発展と同時に間違った思いを持つようになった。欲である。つまり欲望を抱き、時と共に人類は純粋さを失って行った。果たして神様は現代の世相を理想としていたのだろうか。神様を創った更に未知の存在がいたならば、その存在はそれを意図してこの地球を創造したのだろうか。私達は神々と共にこの豊かな地球で成長をしながら歩み続けている。私達はまるで神々に恋をしていている。恋とは誰もがすることだろう。恋の醍醐味はやはり相手を知るまでの楽しさにあると思う。しかし知り尽くしてしまうと、そこに何の不思議もなくなり興味も消え去ってしまうかもしれない。好奇心を情熱へと変える未知が無くなってしまうからだ。もしくは愛へと変わることもあるだろう。全く知らない何かを真に愛することはできない。愛するから信じることができる。特殊な場合もあるが、通常の人間は私を含め神々を知らない。それはとても単純である。見たことがないからである。前述の通り私達は神様の未知に対してとても強い好奇心を感じている。それが情熱とまでなったのが宗教家だろう。思うに人間がされて嫌なことは神々がされても嫌だと思う。例えば嘘をつくことだ。神々も嘘をつかれたら良い印象は持たないだろう。私が思うに人間がされて最も嫌なことは嘘をつかれることだと思う。また些細な嘘をつくとその嘘を隠すための嘘を更につく。最後は争いにまで発展しかねない。臨機応変という言葉があるが、人間は愚直になることがとても大事だと思う。不器用でも愚直に生きている人間は人間同士の世界でも信用があるだろう。正直者は馬鹿を見ない。たとえ一時的に信用を失っても嘘がないからだ。また嘘つきほど損な者はいない。同様に神々も愚直な人間を信用するだろう。愛とは一方的ではなく相思でないと決して成り立たない。そこから互いを信じることへと発展して行く。つまり恋から愛へと発展する。だからこそ真の信頼関係があり共存していくことができる。神々と人類。 最後に、神々も知らない存在があるかもしれない。正に上には上があるに尽きる。